年代:徳川家綱の時代

作者:未詳

 

延宝7年(1679)徳川四代将軍家綱の時代に上州高崎の城主安藤対馬守重治により寄進された絵巻物です。

表紙に金襴唐草模様のある錦、見返しには金布目地紙が使われています。

上巻部分には、第2次世界大戦の空襲により受けた破損がありますが、戦火を免れた貴重な文化財です。昭和63年に墨田区登録文化財(歴史資料)に指定されました。

 

 

 

 この御縁起は、三巻から成る紙本着色の絵巻物で、二重の木箱に納められております。その長さは上・中の二巻がそれぞれ約12メートル90センチ、下巻は約14メートル72センチあり、幅は各巻とも約32センチとなっています。

 その製作につきましては、下巻末尾の奥書に、「此寺の縁起、破壊に及び、画図文詞正しからざる故、安藤対馬守重治再興して、画工能書に命じ、縁起三巻に事生、当寺主典海へ寄進して、永く此寺の什物となす 神は敬によつて威を増の謂歟」とあり、延宝7年(1679)、すなわち徳川家綱(四代将軍)時代の作品となります。ただし作者に関しては、未詳です。

 その内容は、山王権現信仰に基づき、梅若丸一代の物語を詞と絵とをもって表現したもので、各巻には、それぞれ五景の絵画面があります。

 

【上巻】

梅若丸の両親である吉田少将惟房夫妻が、近江国坂本の日吉山王に祈願して梅若丸が誕生するところから始まります。やがて比叡山に登って学問修業をする梅若丸の身の上に、山僧の争いに端を発する災厄がおそってくるところで終わっています。

 

【中巻】

比叡山を逃れて生家へ帰ろうとした梅若丸が、琵琶湖畔の大津の浜でたまたま奥州の人買商人である信夫藤太にかどわかされ、東国へ連れ去られる旅路を主な場面として、隅田河原における梅若丸の最期と、都の母の歎きで終わっています。

 

【下巻】

我が子をたずねて物狂となった母の旅立ちに始まります。これは能楽や演劇・舞踊その他の芸能で、もっとも人々に親しまれた有名な場面でありますが、やがて塚前における亡児との対面、鏡ヶ池にまつわる妙亀伝説、さらに梅若丸の尊霊が、いわゆる梅若山王権現として永くこの地に鎮座する由来をもって結びとなっております。

 全巻とも、木母寺寺宝として、三百余年の永い歳月に耐え、大切に護られてきましたが、大戦中の昭和20年(1945)4月には戦災に遭い、爆弾の破片が二重の木箱を貫通して、上巻の軸部に近いところにまで達し損傷も加わりましたが、幸いに大事を免れました。昭和63年(1988)、この絵巻の美術的、歴史的価値により東京都墨田区登録文化財(歴史資料)の指定を受けました。

 

特別の場合を除き平常は公開されておりません。


 

 

昭和63年8月5日

 

墨田区登録有形文化財(歴史資料)に登録