木母寺は天台宗の僧、忠円阿闍梨により、平安中期貞元元年(976)に開山後、梅若寺 隅田院とも称しました。天正18年(1590)徳川家康によって梅柳山の山号を得、慶長12年(1607)には前関白近衛信尹が参詣し、柳の枝を折って筆代わりに「梅」の異字体「」を「木」と「母」に分けて以来、現在の寺号になりました。木母寺は江戸時代が最盛期で、その境内には隅田川御殿が建てられ、徳川三代将軍家光の時代から八代将軍吉宗の時代までの将軍が鷹狩りや隅田川を遊覧されたり、将軍に献上する御前栽畑もあり、徳川家との関係が密でありました。

明治維新の廃仏毀釈によって梅若神社となりましたが、明治21年(1888)光円僧正が仏寺として再興されました。昭和51年東京防災拠点建設事業により160mほど移転し、現況に至ります。


和暦 西暦 時代 出来事
貞元元年 976 平安中期

僧の忠円によって梅若丸の墓所が築かれ、翌年にいたり、その側に念仏堂が建立されたという。(梅若寺の起源)

文治5年 1189 鎌倉初期 源頼朝が奥州遠征の途中に参拝したと伝えられている。
長禄3年 1459 室町中期

太田道灌が参拝し梅若塚を改修したといいこの頃、梅若寺を建てられたともいう。

文明17年 1485  室町中期

 京都五山の僧である万里が、ここを訪れたことを彼の詩集『梅花無尽蔵』で述べている。これは、梅若塚を記したものとして現存する最古の文献である。

また翌18年には、准三后の位にあった僧の道興も、ここを訪れたことが彼の紀行文

『廻国雑記』に出ている。

天正18年 1590  桃山期 徳川家康が参拝し、梅柳山という山号を贈られる。 
慶長6年  1601 江戸初期 

徳川氏より五石の寺領を給せられる。

ついで、 寛文10年(1670-家綱の時代)さらに二〇石を加増される。

慶長12年  1607 江戸初期 前関白の近衛信伊が参拝する。この時、木母寺と改名される。 
慶長~慶安  

江戸初期

家光の時代

当寺の境内に隅田川御殿が建てられ将軍その他の貴人がしばしば来寺する。

延宝7年  1679 家綱の時代 

上州高崎城主の安藤重治によって絵巻物「梅若権現御縁起」三巻が寄進される。

宝永2年 1705 綱吉の時代

当寺の堂舎配置の様子が石川流宣の『江戸案内巡見図鑑』に詳しく示される。

元禄~

享保年間

  18世紀前半

梅若伝説に取材した一連の文芸作品『隅田川物』の最盛期となる。

当寺は、この頃、貴人の寺から次第に庶民の寺となり広く世人に親しまれるようになる。

明治元年 1868  明治初期

維新と供に幕府の保護を失い廃寺となり寺の堂舎は取り除かれて跡地には梅若神社が創建される。

明治21年 1888  明治中期

仏寺復帰の願いが僧の光円によって実現され、木母寺の再興がなし遂げられる。翌22年、梅若神社が旧に復して梅若堂となる。

神社を再び仏寺とする事は当時としては非常に困難な事業であり、当寺では、明治中興と称している。

大正9年 1920  大正

東京府によって梅若塚は史跡の指定を受ける。(のち東京都旧跡)

昭和20年 1945 昭和

4月13日、米軍機の空襲を受けて本堂など焼失する。

また戦火を免れた唯一の仏堂である梅若堂も15日の再度の空爆により損傷を受ける。

昭和25年 1945

もとの位置に仮本堂を建立する 

昭和27年 1952

梅若堂を改修し梅若権現忌(梅若祭り)が復活し今日に至る。

なお、梅若忌は明治中興後は新暦4月15日に執行される。

昭和51年 1976

都市再開発法に基づく防災拠点建設事業の実施により現境内へ移転する。

 なお、この年「梅若塚保存会」が結成される。