木母寺には、平安時代中期の梅若丸と狂女となった母親の悲しい物語が伝わり、梅若塚と梅若堂が祭られています。梅若丸物語は古来、母子の愛情を示す悲劇として民衆の紅涙をしぼり、語りつがれてきました。

この伝承は、むかしの墨田村の口伝えというばかりでなく、種々の芸能・芸術として広く流布し発達してきました。

 

◆能楽◆

最初に、この梅若丸物語を芸道として大成させたのは、室町時代中期の能役者観世十郎元雅(1401?~1432)です。元雅は能楽の大成者世阿弥元清の長子で、能役者としての演技力と謡曲作者としての非凡な才能を発揮しましたが、元雅の生涯は薄幸で、40歳を待たずに他界してしまいました。元雅の作品には、「盛久」「弱法師」などの名演目があります。「隅田川」は、春の隅田川を舞台に子と母の愛情を描いた能で、狂ものをシテとした狂女物の代表的傑作とされています。

この演目が作られ、隅田川芸能がはじまったのです。

 

 


◆浄瑠璃◆

寛文元年(1661)以前の説教浄瑠璃や、宇治加賀掾や山本土佐掾の正本にも「すみだ川」があり、古浄瑠璃として取り入れられています。それをもとに、浄瑠璃作者中興の祖と言われている近松門左衛門が「雙生隅田川」を書きました。人形浄瑠璃(文楽)でも盛んに上演されています。

18世紀初頭に演じられて歌舞伎「出世隅田川」に続く近松門左衛門の浄瑠璃「雙生隅田川」によって1つの頂点に達しました。

能「隅田川」からは梅若丸と東門院の若松が兄弟に、忍の惣太は人買いから忠心に忍ぶの惣太がお家再興の金欲しさから主家の子供を誤って殺してしまうという因縁話が結びついた内容になっています。

近松門左衛門の「雙生隅田川」が、江戸期の世相や人情を反映していると言われているのはこのためです。

 


◆歌舞伎◆

元禄14年(1701)初代市川団十郎作「出世隅田川」が、中村座で初演されました。

その後、浄瑠璃の「雙生隅田川」の影響を受け、人買いに殺された悲劇の稚児として描かれるようになり、奈河七五三助作「隅田川続俤」や河竹黙阿弥作「都鳥廓白浪」などの隅田川物が描かれました。大正8年(1919)には東京・歌舞伎座で初演され、二代目市川猿之助や二代目市川団四郎らによって演じられました。上演された記録は多くの浮世絵からも知ることができます。

 


◆舞踊◆

舞踊では清元の「隅田川」がありますが、詞章がもの悲しく、清元の哀調をしんみりと聞かせます。また、一中節の「峰雲賤機帯」や長唄の「八重霞賤機帯」などは、能「隅田川」をもとに作詞されました。

 


◆オペラ◆

謡曲「隅田川」は海外ではカーリュー・リバー(Curlew River)と表現されています。イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンという人物が昭和31年(1956)に来日した時に見た謡曲「隅田川」に感銘を受け教会上演用寓話劇「カーリュー・リバー」を作り海外に紹介しました。近年では、オペラとして日本でも上演され、多くの人に鑑賞されています。