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近衛公とは、皇室の外戚である藤原氏直系の名門で当時、最高の官職であった関白を辞していた信尹(のぶただ)公のことです。
関が原の合戦に勝ち、政権の確立した江戸の府を同公が訪れたのは戦後7年の慶長12年(1607)であることが、寺宝の「都鳥・角田川」の書軸で分かります。
それまで梅若寺と称していた寺号を改めて「木母寺」とするよう住持(尊海)に勧め、その応諾を得てから、梅若塚の柳の枝を採り求めさせて、それを筆として新寺号を大書した話は広く知られています。
「木母」とは木公を松とするのに対し、梅の異名であることは中国の古い文献にあり、日本でも和歌などに用いられております。
近衛公は、公卿としてはかなり奇行に富んだ人、また当時の新興政権の主である豊臣秀吉とは不和であったらしく一時、九州へ配流という事件すらありました。
「都鳥」「角田川」を詠んだ和歌には同公の機智が秘められているようです。
二つの和歌は一つの掛軸におさめられています。
『 こたへせは わかいてゝこし
みやことり とりあつめても
ことゝはましを
又 戯に
きてみるに 武蔵のくにの
江戸からは 北と東の
角田川なり 』
慶長12年 (花押)
(以下は現代読み)
『答えせば 我が出でてこし都鳥
とりあつめても 言問わましを
また 戯れに
来て見るに 武蔵の国の江戸からは
北と東の住田川なり』
初めの歌は業平朝臣の事故に寄せて都鳥に問いかけたもの、後の歌は、この辺が江戸から見ると北東の角(すみ)に当っているという洒落を表していますが、とくに『武蔵のくにの』と対岸を呼んでいるのはこちら岸がまだ下総の国であったころのことを表しているわけです。
同公は三藐院(さんみゃくいん)と号する能書家、「後の三筆」の一人とも称された人物で、個性の強い書風で知られます。
和歌の掛軸に記された慶長12年が木母時起立の年代であると共に、同公東遊の証拠にもなる貴重は資料でもあります。
同公筆の「木母寺」寺号は、いま個性に富んだ書風にふさわしい木額に模刻され、本堂の正面に掲げられております。
昭和58年3月31日
墨田区登録有形文化財(書跡)に登録